Thứ Ba, 19 tháng 5, 2015

常楽寺 画像



義経正室、河越重頼、義経の墓


改築中の常楽寺。2004年
大道寺政繁  供養塔

一遍上人。常楽寺


四神相応(しじんそうおう)の地、上戸(うわど)


河越重頼の供養塔、常楽寺

河越重頼の娘は義経の正妻:河越館

大道寺政繁:後北条氏の河越城代

一遍上人:踊り念仏の時宗の開祖

シンポ「古代入間郡の役所と道」。川越に新しい観光が

川越は四神相応の地。上戸・的場地域→ 川越城地域



★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

川越観光案内  第10回  常楽寺  

国指定史跡「河越館跡」の中心寺

NPO武蔵観研  会長      桑  原  政  則


(この下からリード) -----------------------------------

  川越市上戸(うわど)の常楽寺は時宗(じしゅう)の寺です。国指定史跡「河越館跡」の中心寺です。常楽寺地域は、四神相応(しじんそうおう)の地といわれています。観光スポットになることが期待されます。

------------------------(ここまでリード)


時宗(じしゅう)は一遍上人が開祖


  一遍上人(いっぺんしょうにん)は、踊り念仏で知られる時宗(じしゅう)の開祖です。遊行上人( ゆぎょう・しょうにん)ともよばれます。
  念仏に合わせておどる「踊り念仏」でやさしく教えを広めました。念仏の教えは、一遍によりひろまりました。


鎌倉時代にものごとがスッキリに


  鎌倉の世になり、土地は開墾した武士自身のものになり、ものごとがスッキリしました。ひとびとはものを現実的に見るようになり、絵巻物や彫刻も写実を重んじるようになりました。
  仏教も、一遍のように、ナムアミダブツを、となえさえすれば、浄土へ行けるというように、簡潔になり、庶民のものになりました。

常楽寺は河越氏の持仏堂


  常楽寺は、平安時代末から武蔵で大きな勢力を誇った河越氏の河越館跡(かわごえやかたあと)の一角にあります。元々は河越氏の持仏堂(位牌などの安置所)だったものです。

館は、河越氏の220年間の拠点


  館(やかた)とは、公私の性格をそなえた官舎のようなものです。鎌倉から南北朝にかけて、武蔵最大の豪族・河越氏が拠点としていました。220年間この地をおさめました。
  河越氏は、桓武天皇→秩父氏の一族で、畠山氏、江戸氏と兄弟でした。千葉、上総、三浦、梶原氏などと同族です。
  国指定史跡の河越館跡(かわごえやかたあと)は、「河越館跡史跡公園」として 2021年に整備が完成し、巨大観光スポットとなる予定です。

河越重頼は源頼朝の重鎮


  1180年に、源頼朝が挙兵した際、敵対関係にあった河越重頼は、頼朝の御家人となり平氏討伐に参戦し、重く用いられます。娘(京姫)を、源義経に正室として嫁がせました。
  しかし、河越重頼は、義経の縁者ということで、源頼朝から所領を没収され、命までも奪われました。
  1368年、河越氏などは河越館にたてこもり、室町幕府に反旗を翻す「平一揆の乱」で破れ、伊勢方面へ逃れたといわれています。

山ノ内上杉顕定が上戸に陣を構える


  1457年、 山内上杉顕定(やまのうち うえすぎ あきさだ)は上戸陣に何千もの兵を置きました。上杉顕定は、40年以上にわたって関東管領を務めました。関東管領は、公方(くぼう)の執事役です。
  扇ヶ谷(おおぎがやつ)上杉持朝の川越城に戦いをいどむためです。対岸の川越城は、上杉持朝の命で、太田道真道灌父子が築いたものでした。

大道寺政繁は常楽寺中興の祖


  大道寺政繁は、北条早雲の重臣として関東制覇に活躍しました。川越城、群馬県・松井田城の城代を兼ねていました。
  1546年、河越夜戦のあと、河越に入城し、荒れ果てた常楽寺の復興に尽くし、常楽寺の中興開基として供養されています。
  大道寺政繁は、蓮馨寺(れんけいじ)を川越に移しました。見立寺(けんりゅうじ)を開きました。
1590年、豊臣秀吉による北条氏攻略が行われると、大道寺政繁は豊臣軍を迎え撃ちますが、敗れ、豊臣の軍門に下り、殺害されます。
  常楽寺の鐘楼門は、この門は大道寺政繁の子孫が寄進したものです。鐘楼門の左右には仁王像が鎮座しています。

「河越」から「川越」へ  


  「河越」は、秩父から降りてくる場合、入間川などを越えるので、「河越」と名づけられたとおもわれます。「河越」は、江戸時代から「川越」になりました。

四神相応(しじんそうおう)の地、常楽寺地域

  常楽寺地域地域には、飛鳥から平安にかけて入間郡家(いるまぐうけ、役所)が、おかれていました。
  入間郡家を四神(ししん)が守っていました。
東は清流、南は湖沼、西は大道、北は丘陵(神社)です。
四神の地域は、土地が栄え、人間がしあわせになる環境にやさしい地形のことです。
  【※】太田道灌らがこの四神相応の風水を、現在の川越城の地にも移したとも。東は入間川、北は氷川神社、西は川越街道、南は沼(埋め立て)となります。

【常楽寺の概要】


名称 河越山(かわごえさん) 三芳野院 常楽寺
         【※】「山号」は、お寺が山中に建てられた名残です。お寺正面の門は「山門」といいます。              「山号→ 院号→ 寺号」と続きます。 「河越、三芳野」といった川越を代表する名称が使われ          ています。
住所    川越市上戸(うわど)194
宗派 時宗(じしゅう) 【※】「ときむね」ではない。河越夜戦の東明寺も時宗です。
本尊 阿弥陀如来
創建 嘉元3年(1305年)鎌倉時代後期
総本山  藤沢市の遊行寺(ゆぎょうじ)を を総本山とする。正式名称は清浄光寺(しょうじょうこうじ)

【後記】


  本稿作成にあたり、常楽寺の米山知行住職にお世話になりました。写真は石山貞夫、文責は桑原政則にあります。
  米山知行住職のセミナーでは、桑原、石山の他に、『時宗  河越山三芳野院  常楽寺』(2007)の記念誌編集委員・佐久間正二も加わりました。みなさまに謝意を表します。

Không có nhận xét nào:

Đăng nhận xét