葵紋(あおいもん)大旗(おおはた) /* |
2015年3月に川越市の有形文化財に指定されました。
この「本陣旗」は、松平周防守(すおうのかみ)家当主の居所を示すために使われます。
徳川家康拝領の葵紋大旗は、他の大名家には見つかっていません。
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*http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E6%9D%BE%E4%BA%95%E6%B0%8F
永禄4年(1561年)に今川方東条吉良氏が徳川家康に降服後、松井忠次は家康に従った。この時より、今川家重臣の遠州二俣城主松井氏とは別の歩みを始めた。遠州松井氏が主家今川氏の没落に伴い零落していったのとは対照的に、三河の忠次とその一族は徳川軍の主力の一翼を担い、今川・武田・北条の戦国大名諸氏と戦い、忠次自身は天正11年(1583年)、伊豆国沼津の三枚橋城にて北条氏との対陣中に死去した。松井忠次は遠州諏訪原城(諏訪之原城、牧野城)攻落やその後の守備に功績甚大と評され、家康よりその偏諱と松平の名乗りを与えられて松平康親と改称した。
以後、この系統は転封を繰り返して、丹波国篠山藩・和泉国岸和田藩・石見国浜田藩など、幕末までに十余度も支配地が替わった。最後は第12代藩主・康英の時に武蔵川越藩(8万4千石)にて明治維新を迎えた。なお、代々周防守の官名を世襲し、松平周防守を名乗った。
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【※】光西寺は、三河以来の徳川関係文書など700点余りを保管していました。
初代・康親(やすちか、1521- 1583)は、三河以来の家康の家臣で、織田信長との清洲同盟にも活躍し、武功を上げました。
家康の家臣の中ではじめて大名になりました。
葵紋(あおいもん)大旗(おおはた)は、初代・康親が徳川家康から拝領したものです。
松平周防守(すおうのかみ)家の第2代藩主は、徳川家康の落胤でした。
以降、松平周防守家が重要なポストを歴任するのは、徳川家康との深い因縁によります。
★ ★ ★ ★ ★別項へ
松平周防守家の浜田藩は、1836年竹島を根拠地として外国貿易を行っていたことが露見し、福島県棚倉へ左遷となりました。
1866年、幕府は松平康英(やすひで)を棚倉から川越に転封させます。
維新の危機に面した幕府が、最後の川越藩主・松平康英の手腕に期待したからでした。
松平康英は、遣欧使節団の副使として活躍しました。
【※】
桑原政則、「川越観光案内 光西寺 浜田市、棚倉町、川越市と、藩についてきた士族寺」『川越の文化財』川越市文化財保護協会
* http://www.city.kawagoe.saitama.jp/kurashi/bunkakyoyo/bunkazai/shiteibunkazai/shishiteibunkazai/aoiohata.html
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