Chủ Nhật, 10 tháng 8, 2014

8  唐帝国の国際性 ~長安を訪れた日本人留学生~

8  唐帝国の国際性 ~長安を訪れた日本人留学生~


今日は、唐の時代の中国がテーマです。

ローラさんは、いずれも“唐”が付く、トウガラシとトウモロコシをお土産に持ってきました。
しかし、トウガラシやトウモロコシは中国の原産ではなく、南米産です。
昔の日本では、外国全般を指す言葉として“唐”が使われていたのです。

今回のナビゲーターは、楊貴妃(ようきひ)。
エジプトのクレオパトラ、小野小町と並んで、世界三大美女の一人として知られています。
楊貴妃は、唐帝国第6代皇帝・玄宗から寵愛を受けていました。
しかし後世の人々から、「傾国(けいこく)」という、あまり有り難くない異名をとることとなりました。

今回見ていくのは7世紀初めから10世紀初めまでの、およそ300年間です。


特に8世紀前半、唐帝国では華やかな文化が花開いていました。
都の長安は、さまざまな国から人が訪れる国際色豊かな都市でした。
彼らはまた、唐の進んだ文化や制度を、それぞれの国に持ち帰っていきました。

もちろん、日本からも多くの人々が、はるばる海を越えてやってきました。
世界に誇るべき唐帝国の文明は、長安から広く東アジア一帯に伝わっていきました。

ローラさんによると、唐はとても華やかな時代であったため、ドラマの舞台などにもしばしば使われていると
いいます。

唐の歴史は、楊貴妃が生まれる約100年前に始まりました。
唐は618年に建国され、およそ300年間、中国に繁栄をもたらしたのです。

都の長安は、現在の西安(せいあん)市です。
唐の長安城は、とても巨大な都市でした。
その広さは東西10km、南北9kmもあり、「東京ドーム」が1800個も入るほどでした。

街は、直角に交差するいくつもの道で、区分けされていました。
メインストリートである朱雀大路の道幅は、150mもあったといいます。
その突き当たりは、皇帝が政治を行う場所でした。


7世紀後半には新しい宮殿・大明宮が造られ、政治の中心が移されました。
大明宮の正殿、含元殿では、さまざまな儀式も行われました。

中でも、毎年元日に行われる「朝賀の儀」は、外国からの使節も大勢参加する、盛大なものでした。


そんな唐帝国の国際性を物語る遺跡が、第3代皇帝・高宗(こうそう)の墓である乾陵です。
墓を守るように並んでいる石像は、唐に使節を送ってきた国の人々をかたどったものです。
服装や髪型など、異国の風俗をよく表しています。

こうした人々のなかには、役人に採用される人もいました。
唐の皇帝は、人種や出身民族で差別することはありませんでした。

また唐では、馬に乗ってボールを打ち合うスポーツ、現代の「ポロ」が行われていました。
ペルシャで生まれたこの競技は、唐の貴族の間で大流行していました。

世界で一、二を争う繁栄ぶりを見せていた唐帝国は、楊貴妃と玄宗の時代に絶頂期を迎えることになります。

唐の時代、日本からは遣唐使が派遣されました。
そして、唐から学んだもので最たるものが、平城京です。
長安城と比べると、平城京は1/4の大きさでした。


玄宗が第6代皇帝として即位したのは、712年のことでした。
唐帝国は、建国から100年ほどが経ち、法律や制度が現実にそぐわなくなっている面もありました。
そこで玄宗は、農業や軍事など様々な方面の改革を行うとともに、社会の規律や秩序を正しました。
その政治は「開元の治」と称されています。

玄宗の治世7年目の年、蜀(しょく)という地方で、楊貴妃が生まれました。

楊貴妃はやがて17歳で玄宗の息子(寿王李瑁)の后となり、長安にやってきます。
その5年後、玄宗に見初められ、寵愛を受けることになります。


玄宗は、いつも楊貴妃を喜ばせていました。
楊貴妃が大好きな果物ライチを、産地の嶺南(れいなん)から早馬を走らせて取り寄せていました。

また毎年冬になると、寒さの厳しい長安を離れ、華清池という温泉地で過ごしました。
華清池は現在、観光地として、とても人気があります。

玄宗は、楊貴妃の家族や親類にも、目をかけていました。
中でも、またいとこの楊国忠(ようこくちゅう)は役人のトップ・宰相に抜擢されました。

しかし、そのことが原因で、唐帝国を揺るがすほどの大事件が起きてしまいます。


ローラさんは楊貴妃について、とても美しい人だけれど、不幸な女性だった、というイメージがあるそうです。
皇帝の寵愛を受ける代わりに、他の女性が嫉妬して、意地悪されたといいます。
当時の漢詩には、皇帝の妻が3000人いたとも記されており、皇帝の妻であっても死ぬまでに顔も見たことがないという人もいたそうです。


玄宗と楊貴妃が出会って15年目に、二人に破局が訪れることになります。
755年、国境警備の任に就いていた安禄山(あんろくざん)という男が、反乱を起こしたのです。
安禄山は楊国忠と犬猿の仲で、国忠が宰相になったため、失脚させられるのではないかと恐れるようになりました。
そこで、「やられる前にやってしまえ」とばかりに、兵を挙げたのです。

玄宗は、楊貴妃や政府の高官と、わずかばかりの兵を連れて長安を脱出しました。
安禄山の軍隊は、外国から唐の領土を守るためのものであったため、それに対抗できる力は国内にはありませんでした。
一行は、楊貴妃の故郷・蜀を目指します。


ところが長安を出て間もなく、誰ともなく「安禄山の反乱は、楊国忠が原因だ」と言い始め、国忠は
殺されてしまいました。
さらに国忠が宰相になることができたのは、楊貴妃がいたからであり、災いの原因は楊貴妃だと言う者まで現れたのです。
楊貴妃が「傾国」と呼ばれているのは、これが理由です。

玄宗は、楊貴妃の死を求める者たちを抑えることが出来ませんでした。
楊貴妃は、これまで受けた玄宗の愛に応えるため、迷いなく死を受け入れたのです。
その翌年、皇帝の位を息子に譲った玄宗は、楊貴妃の絵を眺めながら涙する日々を過ごしたといいます。
そして762年、ひっそりとこの世を去りました。

唐帝国も、安禄山の起こした反乱によって大いに威信を傷つけられ、徐々に衰退していきました。

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