ユリウス・カエサルは、古代ローマの軍人であり、政治家でした。
かつて、ローマには“人類史上もっとも幸福な時代”と言われるほど安定した時期がありました。
人はそれを「パクス・ローマーナ=ローマの平和」と呼びました。
そして、その時代の礎を築いたのがカエサルです。
今回見ていく時代は、紀元前8世紀半ばから紀元後の4世紀です。
舞台は、ヨーロッパ、西アジア、北アフリカという広大な地域です。
イタリア半島中部の一都市国家に過ぎなかったローマが、巨大な世界帝国へと成長しました。
現在のヨーロッパ社会の基礎となった、ローマの繁栄を見ていきます。
ローマの建国は、紀元前753年のことと伝えられています。
伝説によれば、建国の王は、狼に育てられた勇士だったといいます。
以後、ローマでは王政が7代続きますが、紀元前509年に大きな転機を迎えます。
王を追放して、共和政を樹立しました。
政治の実権を握ったのは、有力貴族によって構成された元老院でした。
独裁者が現れて個人に権力が集中しないように、集団で意見をまとめて、国家を運営して行こうと考えました。
共和政ローマは強い武力によって、周辺の都市国家や部族を征服していき、紀元前272年にはイタリア半島の統一を成し遂げます。
数多存在する都市国家のひとつに過ぎなかったローマは、その後も地中海世界に領土を広げていくこととなります。
ローマの人たちは、今も共和政を誇りに思っているといいます。
ローマ市の紋章には「SPQR」という文字が見られます。
これは、Senatus Populusque Romanus の略で、「ローマの元老院と民衆」という意味です。
このように、現代にも古代ローマの歴史が残っていると言えます。
ローマでは、今でもこの紋章が色々な場所に、使われています。
例えば街のマンホールやバス、地下鉄等に紋章のシールが貼ってあります。
ローマの領土が拡大していくにつれて、元老院メンバーをはじめとする貴族たちは、莫大な富を手にするようになります。
一方、軍の中枢を担っていた平民たちは、相次ぐ戦争によって疲弊していきました。
両者の対立は次第に深まり、紀元前2世紀後半からの100年間は、「内乱の一世紀」と呼ばれる状態になってしまいます。
カエサルが生まれたのは、そんな混乱状態のさなかでした。
やがて、元老院の一員として政治に携わるようになったカエサルは、共和政の限界を感じ始めます。
そしてガリア、現在のフランスの反乱を鎮めて凱旋する途中、大きな決断を下します。
ローマとガリアの境を流れるルビコン川に差し掛かったときのことです。
この川を越えてローマに戻る時には、軍隊の武装を解かなければならない決まりになっていました。
しかし、このまま軍を進めてローマを制圧すれば、カエサル個人が大きな権力を手にすることができます。
そして、カエサル個人のリーダーシップで、混乱した政治を立て直せるはずだと考えました。
カエサルは賭けに出ることを決め、ついに進軍の号令をかけました。
武装したままの軍隊を伴って、ルビコン川を渡ったのでした。
この時、カエサルが言った言葉が
“Alea jacta est”=「賽(さい=サイコロ)は投げられた」
でした。
賭けの結果、カエサルは武力制圧に成功します。
紀元前45年、強大な権限を持つ終身独裁官となりました。
これにより、内乱は収まり、社会は安定するかに思われました。
しかしその翌年、共和政の崩壊を恐れた人々に謀られて、カエサルは暗殺されてしまいます。
しかし、「強力なリーダーシップの下でこそ政治は安定する」というカエサルの考えが正しかったことは後に裏付けられることとなりました。
紀元前27年から帝政が開始され、およそ200年間、平和な時代が続きます。
カエサルがルビコン川を渡ったからこそ、パクス・ローマーナ(ローマの平和)が訪れたのです。
日本史にも、カエサルのように天才的でしたが、暗殺された人物がいます。
戦国武将の織田信長は、天下統一を目指しましたが、本能寺の変で死亡しました。
信長は天下統一の土台を築き、その後徳川家康によって天下太平が実現しました。
後の人間が統一を成し遂げたという部分でも、カエサルと共通しているといえます。
平和な時代「パクス・ローマーナ」の様子を物語るものとして、ポンペイの遺跡があります。
ローマ帝国の地方都市ポンペイは、紀元79年、火山の噴火によって火山灰に埋もれてしまいました。
そして今、まるでタイムカプセルのように、ローマの人々の生活の様子を伝えています。
道路は、車道と、一段高くなった歩道とに分けられていました。
さらに横断歩道まで作られていました。
水道も整備され、市内のいたる所に水汲み場がありました。
またローマ人は、風呂好きであることが知られています。
浴室の装飾には贅を凝らし、ゆっくりと長い入浴時間を楽しんでいました。
そして、最大の娯楽といえば、剣闘士の興行です。
試合が行われる日には、付近の都市からも大勢の人が詰め掛け、大歓声が響き渡っていました。
パクス・ローマーナは、人類史上もっとも幸福な時代と言えるかもしれません。
ポンペイの遺跡には
「誰であれ愛する者はすこやかであるように。
愛することを知らぬ者は死んでしまうように。
愛することを禁じる者は誰だって二度死んでしまうがいい。」
と、古代ローマの文字で書かれた当時の落書きが残っています。
このように、ローマの人たちは情熱的だったからこそ、ローマが大きくなったかもしれません。
ローマは、征服した国や民族の宗教に対して、寛容な態度を取っていました。
それどころか、他国の神々をもローマの神として取り込んでいくなど、多神教世界でした。
そんな中、帝国の東の端のパレスティナで、イエスという男がユダヤ教の改革運動を始めます。
イエスは民族宗教であったユダヤ教の枠を超え、民族や階級に関わらない神の愛と隣人愛を説いたのでした。
しかし彼はローマ帝国に対する反逆者であると訴えられ、処刑されてしまいます。
イエスの死後、弟子たちによって彼の考えが広められ、キリスト教が成立しました。
ローマは、パクス・ローマーナの時期を過ぎ、3世紀に再び政治が混乱し始めます。
そして帝国には、キリスト教に救いを求める人が増えていきました。
ローマは、キリスト教を迫害した時期もありましたが、やがて統治に利用するようになります。
4世紀の末、時の皇帝がキリスト教を国教とすることを宣言しました。
これにより他の宗教や神を信じることを禁じ、一神教世界へと変わっていきました。
パンテオン(万神殿)は元々はローマの神々を祭る神殿でしたが 現在はキリスト教の聖堂となっています。
現在ヨーロッパの国々がキリスト教国であるのは、ローマ帝国がキリスト教国になったためです。
キリスト教が広まった3世紀には、ローマ帝国は非常に危機的状況に陥っていました。
軍人を優遇してきたことにより、国家の財政がほとんど破綻していたためです。
その混乱にあって、50年間の間に20数人の皇帝が出てきました。
さらに自称の皇帝も含めると、皇帝が70人以上いたとも言われています。
不安におののく弱者や、抑圧された人々は、より強い神に頼ろうという気持ちが強くなっていったのでは
ないかと考えられます。
キリスト教の神は、唯一神で、全知全能の神でした。
民は、そのような絶対的な存在が、欲しかったのかもしれません。
ローマ帝国に保護されたキリスト教徒は、
その後のヨーロッパの歴史や政治、文化に大きな影響を与えました。
特に歴史の面ではヨーロッパだけでなく、世界に影響を与えてきました。
文化の面では、キリスト教的な絵画や、キリスト教的な音楽、文学も生まれてきました。
欧米には、現在でもキリスト教を題材とした作品が溢れています。
このことからキリスト教を知ることは、世界史をより深く知る手がかりになると言えます。
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