回は、現在のトルコにあたる地域を支配していた「ビザンツ帝国」について、お話ししていただきます。
ビザンツ帝国は、私たちの生活に密接なかかわりのある「六法全書」と関係があるといいます。
テオドラは、ビザンツ帝国の皇帝、ユスティニアヌスの后です。
ビザンツ帝国とは、4世紀から15世紀まで千年以上続いた、人類史上最長とも言われる巨大帝国です。
現在のトルコ・イスタンブルを中心とした広大な地域を領土としていました。
ビザンツ帝国はアジアとヨーロッパを結び、後世に残る華やかな文化を作り上げました。
日本では4世紀の古墳時代から奈良、平安、鎌倉、室町時代までの、長い期間に相当します。
テオドラは美の象徴とされるほど美しい人物で、フィダンさんによれば、
「現在のトルコの街中にも、“テオドラ”という名前の化粧品店やエステサロンなどの店舗がたくさんある」といいます。
ビザンツ帝国の始まりは、テオドラの生まれる前の時代にさかのぼります。
当時はローマ帝国が、現在のイギリスから北アフリカやトルコまでを支配し、地中海を中心に繁栄を
極めていました。
しかし、3世紀に入ると国力が弱まり、異民族の攻撃にさらされてしまいます。
そこで4世紀、当時のローマ皇帝が、異民族の侵入に備えて都をローマからはるか東に移しました。
そこはビザンティウムという名の小さな港町でした。
当時の皇帝の名をとり、コンスタンティノープルと名前を変え、ここに新しい都を築きました。
その後、ローマ帝国は東西に分割され、西のローマ帝国はあっけなく滅んでしまいます。
しかし、東ローマ帝国は長く繁栄を続けることになります。
そして歴史学者が後になって、元の港町の名前のビザンティウムにちなみ、ビザンツ帝国と呼ぶようになりました。
ビザンツ帝国の都、コンスタンティノープルは、海に突き出ている要塞都市でした。
歴代の皇帝たちは、さらに町を守るために、周囲を城壁で囲みました。
ビザンツ帝国の繁栄は、首都コンスタンティノープルを守り続けた、この城壁のおかげでもありました。
テオドラは、この町で踊り子をしていました。
父は競馬場で働く庶民でしたが、テオドラはその容貌で広く人気を集めていました。
そしてある日、後に皇帝となるユスティニアヌスが、テオドラを見初めることになります。
ユスティニアヌスは地方の農民の出身でしたが、苦労を重ねて勉強を続け、有力な政治家になっていました。
しかし、身分の違う二人の間には障害がありました。
踊り子と政治家は、結婚を禁じられていたのです。
それでも、ユスティニアヌスはテオドラとの結婚を望み、そのために法律まで改正しました。
晴れて二人は結婚し、ユスティニアヌスはビザンツ帝国の皇帝にまで登りつめました。
農民出身の男が皇帝になり、踊り子だった女がその后になったのです。
このようにビザンツ帝国は、生まれや身分によらず、実力を重んじる活気あふれる社会でした。
皇帝になったユスティニアヌスには、古代ローマの栄光をもう一度取り戻すという壮大な夢がありました。
その野望を果たすため、戦争を重ね、領土を拡大していきます。
しかし、戦争の費用のために重い税をかけ、そのことで民衆の不満が高まってしまいます。
そして532年、ついに民衆の怒りが爆発します。
「ニカ(勝利せよ)!」と、叫びながら、民衆が大暴動を起こした「ニカの乱」です。
側近たちはうろたえ、気弱になった皇帝ユスティニアヌスは、「ここから逃げよう。」と言い出します。
しかしテオドラは、踏みとどまることを断固主張します。
「皇帝の衣装は、最も美しい死に装束です。死ぬ時は、皇帝のまま、死になさい!」
という妻の強い言葉に、ユスティニアヌスは踏みとどまることを決意します。
勇気を取り戻した皇帝は、軍隊に命じ、力で反乱を鎮圧しました。
こうしてユスティニアヌスは、絶対的な権力と自信を持つようになります。
そしてイタリアや北アフリカ、地中海の西側までも征服し、帝国の歴史で最も広い領土を手に入れます。
ローマ帝国の栄光を再び甦らせるという夢を叶えたのです。
都では、暴動で破壊された聖ソフィア聖堂が再建され、ビザンツで最大級の建築物となります。
キリスト教を国教としたビザンツ帝国において、教会再建は大きな意義を持つものでした。
聖ソフィア聖堂では、聖なる世界を表現するために、巨大なドームとそこに差し込む光で荘厳な空間を作り、
同時に皇帝ユスティニアヌスの力を示しています。
さらに帝国内の様々な民族を束ねるために、ユスティニアヌスは法律を体系化しました。
現代の法にも影響を与えている「ローマ法大全」です。
こうした功績からユスティニアヌスは後に「大帝」と呼ばれる名皇帝となりました。
日本では、江戸時代の二代将軍 徳川秀忠の妻である、お江が内助の功によって秀忠を強くバックアップしました。
お江は徳川家康に対しても意見を言うほど強い女性で、秀忠も頭が上がらなかったといいます。
お江は、日本のテオドラと言えるかもしれません。
六法全書は、ユスティニアヌスが行ったことと、実は深いつながりがあります。
それまでもビザンツ帝国に法律はありましたが、ユスティニアヌスは、それらの法律を
まとめ、整理して体系化しました。
現代の私たちが法律の勉強をする時は、六法全書を読みます。
今の日本の法律は、ヨーロッパの法律を参考に明治時代の日本で作られた法律が基礎になり、それを改定したものです。
そして日本の法律の元にあるヨーロッパの法律は、ユスティニアヌスの法律を基礎にしています。
このように、ユスティニアヌスがまとめた法律が、その後の人々の生活に影響を与えているのです。
法律の他にも、ビザンツの文化や宗教は、後の世界に大きな影響を与えました。
皇帝ユスティニアヌスが建てた聖ソフィア聖堂は、ビザンツ芸術の集大成として、輝き続けています。
キリストなどの姿は、ガラスや石などの小さな破片を一つ一つ壁にはめこむ「モザイク画」で描かれています。
ビザンツ美術は、この美しいモザイク画が特徴です。
帝国の領土だった、イタリアのラヴェンナにも、ビザンツ帝国の文化が残っています。
サン・ヴィターレ教会は、ビザンツ芸術の最高傑作と呼ばれています。
教会のモザイク壁画には、皇帝ユスティニアヌスとテオドラの姿があります。
ユスティニアヌスは、皇帝だけが着ることを許された紫の衣をまとって、誇らしげな姿で描かれています。
テオドラは、その向かい側でメイドたちを従え、毅然とした姿で向き合っています。
夫が力を入れた、この美しいサン・ヴィターレ教会が完成した数年後、テオドラは病でこの世を去ります。
その後、ビザンツの宗教も世界に影響を与えます。
ビザンツ帝国が信仰していた正教会は11世紀、ローマ・カトリック教会と激しく対立し、分裂してしまいます。
正教会は、その後ロシアへ伝わり、およそ400年の長い年月をかけて日本にも伝わっていきました。
ビザンツ時代の文化が、大都会、東京のビル街の中にあります。
ビザンツ様式で造られた「東京復活大聖堂(ニコライ堂)」です。
中に入ると、外の喧騒とはうって変わって、静かな空間が広がっています。
まるで、ビザンツ帝国の空気が残っているかのようです。
この大聖堂は、1891年に完成しました。
テオドラの時代からおよそ1500年後のことです。
この教会は、日本で最大級のビザンツ様式の建築と言われています。
四角い建物の中心に乗っている、大きな丸いドームが特徴的です。
コンスタンディノープルを中心としたビザンツ帝国で、正教の信仰は発展しました。
ローソクを灯して祈る信仰は、日本でもそのまま受け継がれています。
テオドラの死後ユスティニアヌスはすっかり力を失い、大きな功績を残すこともなく、この世を去ります。
その後の7世紀頃より、ビザンツ帝国には様々な敵が攻めてきました。
東からはイスラームの国やブルガリア王国、さらに同じキリスト教の十字軍などです。
そして1453年、ついにオスマン帝国の攻撃に敗れ、千年以上の歴史を刻んできたビザンツ帝国は
滅亡します。
国は滅んだものの、モザイクに描かれた皇帝ユスティニアヌスと妻テオドラの姿は、1500年前と変わらず今も輝き続けています。
二人が礎を築いた法律や建築物などのビザンツ文化も、後の時代に大きな影響を残し、今のトルコやヨーロッパに受け継がれています。
また法律や、東京にあるビザンツ様式の大聖堂のように、遠く離れた現代の日本でもその影響が
見られます。
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