仏教が中国や日本など各地に広まったのは、アショーカ王が仏教を保護し、熱心に広めたためと考えられています。
紀元前6世紀のインドで生まれた仏教はアジアに広まり、およそ1000年後の6世紀に、日本に伝わりました。
アショーカ王は、2200年ほど前に今のインドのほとんどの地域を制覇して、大帝国を作りました。
インドでは紀元前25世紀ごろ、インダス川の流域から都市文明が始まりました。
このインダス文明は、紀元前15世紀ごろまでには消えたと考えられています。
その後、アーリア人と呼ばれる人々がインドの北西部に入ってきて、新たな文明が作られました。
アーリア人は、さらに東のガンジス川流域に移動し、紀元前6世紀頃にはいくつもの都市国家を生みだしました。
そこでは、バラモンと呼ばれる司祭を特権的な地位に置く身分制度が生み出され、農民や先住民などは低い身分とされていました。
バラモン。クシャトリア。ヴァイシャ。シュードラ。不可触民
そうした身分差別に反対して生まれた思想の一つが、後にアショーカ王の心をとらえる「仏教」でした。
創始者は、ガウタマ・シッダールタ、後のブッダです。
シッダールタはシャカ族の王子として生まれ、結婚して何不自由なく暮らしていました。
しかし「人生とは何か、死とは何か」に悩み、29歳の時に家族も地位も捨てて出家しました。
そしてブダガヤという地で瞑想に入り、35歳の時に、この世の真理を得ることができたといいます。
それ以後、シッダールタは「悟ったもの」という意味の、ブッダと呼ばれるようになりました。
ブッダは、「人間の価値は、生まれや身分ではなく、清らかな行いによって決まる」という、新しい教えを説いて回ります。
この教えは、身分制度に苦しむ人々や、女性に支持されました。
こうして信者が集まり、ブッダの死後、その教えがまとめられました。
これが仏教として確立し、インドの身分制度による差別意識を変えていきます。
身分制度はカースト制と呼ばれ、現在のインドの法律では完全に禁止されています。
しかし今も根強い影響が残っているようです。
紀元前3世紀、仏教誕生からおよそ300年後、アショーカ王はマウリヤ朝の王子として生まれます。
アショーカ王の子ども時代、父親は、他の兄弟ばかり可愛がっていたといいます。
しかし、アショーカ王は大臣たちの後押しを受けてマウリヤ朝第3代の王となり、兄弟を皆殺しにしました。
さらに武力で近隣諸国を征服し、インド史上初の大帝国を築き上げました。
しかし、その戦いで多くの犠牲者を出したことを振り返り、アショーカ王は心から後悔し始めます。
そして仏教の僧侶の説法を聞き、心を打たれたことから、考えを改めて熱心な仏教徒となります。
王はそれ以降、武力ではなく「ダルマ」による政治を行うことにします。
ダルマとは、仏の教えを取り入れた法のことで、
・不殺生=生き物をむやみに殺してはならない
・父母に対する従順
・友人・知人・親族に対する敬愛
・他者を尊重する
等の教えのことです。
アショーカ王は、仏教以外の宗教を排除せず、全ての人に共通する法であるダルマを広めました。
また、ダルマの教えを、ライオンの彫刻を施した柱などに刻み、各地に立てました。
さらに人々が仏教の聖地を参拝しやすいように、道路を作り、国土を整備します。
この世を去るその日まで、アショーカ王は仏教を保護し、広めたのでした。
アショーカ王の死後、仏教はアジア各地に広がります。
仏教は中国、朝鮮半島を経て、誕生からおよそ1000年を経た6世紀に日本にも伝わりました。
アショーカ王は、なぜ仏教を広めたのでしょうか?
政治と宗教は昔から密接な関わりがあるものです。
アショーカ王も政治のために、仏教を広めた可能性もあります。
この例として、日本の歴史上の人物では、聖徳太子が挙げられます。
聖徳太子は仏教を手厚く保護しましたが、やはり国を安定させるためという理由もあったといいます。
アショーカ王が各地に立てた、シンボルとも言えるライオンの石柱は、現代のインドの国章にもなったと言われています。
またその一部が、インドの国旗にも使われています。
現在のインドでは、仏教徒の数はとても少なくなっています。
外的な要因は、バラモン教からの攻撃です。
バラモンは王のための儀礼を行うため、王権と結びつきます。
そのため、王にとってバラモンたちは非常に都合のよい存在になりました。
それに対して王は、土地を与えたり、村を与えるなどしてバラモンを保護しました。
するとバラモンたちは非常に力を持つようになり、人々の信仰を自分たちの中に取り入れて、ヒンドゥー教に変化させていきました。
そして力を持ったバラモンたちが、仏教を攻撃することとなりました。
内的要因は、2つ存在します。
一つ目は後援者たちの弱体化です。
仏教を支持した階層は、バラモンの身分的な考えに反発を持っていた、都市の商人たちでした。
グプタ朝(後320ごろ~550ごろ)の後は、インドは暗黒の時代といわれ、商工業が衰退していきます。
これにより都市も衰退し、商人たちの力が衰えていくために、仏教僧たちを十分に支えられなくなりました。
二つ目の内的要因は、仏教の内向化です。
僧侶の間での出世や、より広い家に住みたい、より美味しいものを食べたいなど、ある意味で堕落してしまったことが要因でした。
そのため、外に対するエネルギーがなくなり、布教活動が非常に少なくなっていったと考えられています。
このようにインドでは、外的な要因と内的な要因が絡み、徐々に仏教が衰退してしまいます。
12世紀から13世紀の頃には、インドでイスラーム教徒が多くの仏像や寺を破壊してしまいます。
そして仏教の僧侶たちは、チベットやネパールへ逃げてしまいました。
その後、多くの仏教徒がヒンドゥー教に吸収されました。
ブッダもヒンドゥー教の神々の中に加えられています。
現在のインドは8割以上がヒンドゥー教徒で、次に多いのはイスラム教徒です。
仏教徒は全体の1%にも満たない数となっています。
梵字
・あうん
・娑婆(シャバ)
・旦那←ダーナ
・馬鹿←モーハ
・奈落(地獄)
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