太田資正、軍用犬を駆使 執念で宿敵・北条氏の最期見届ける
2015.02.27 連載:戦国武将のリストラ逆転物語
江戸城を築いたことで知られるのが太田道灌(どうかん)だが、そのひ孫にあたるのが太田資正(すけまさ)である。
父の資頼(すけより)、兄の資顕(すけあき)とともに扇谷上杉氏に仕えていたが、17歳の時に父が死去。家督を継いだ兄と不仲であったために、居城であった岩槻城(現さいたま市)を出て、松山城に移り住んだ。若くして本流を外れ、いわばリストラ人生を生きることを余儀なくされたのだ。
兄の本家は北条氏に臣従し、資正は独自路線で上杉氏に仕え続けたが、主君の上杉朝定が北条氏康との戦いで討死したため、上杉氏は滅亡のピンチに陥る。資正もいったんは松山城を明け渡したが、翌年、北条氏の隙を突いて松山城を奪還。さらに兄の資顕が死去すると、岩槻城へ入って家督を継いだ。
26歳での鮮やかな逆転人生だったが、家臣の一部は北条氏に下り、さらに松山城を任せていた上田朝直も寝返ったために岩槻城を北条氏に囲まれ、とうとう資正も降伏した。
その後は忠実に北条氏に仕え、氏康も資正を丁重に扱った。資正の嫡男である氏資(うじすけ)に娘を嫁がせたことでも、氏康の信頼を得ていたことがうかがえる。しかし、上杉謙信が小田原に侵攻してくると、資正は上杉方に寝返ったのである。表向きは北条に屈していたと見せかけ、ひそかに逆転のチャンスをうかがっていたのだろう。
信じていた資正に裏切られて怒った氏康は、何度も岩槻城を攻めたが、常に太田軍に援軍が現れて、北条軍は撤退せざるを得なかった。実はその裏には、資正の見事な作戦があった。
資正は、軍用犬を飼いならし、書状を入れた竹筒を入れた首輪を着けた犬を放ち、味方と連絡を取っていたのだ。つまり、犬を忍者の代わりに使ったのである。この作戦は「日本史上の軍用犬の起源」と言われ、曽祖父の道灌にも劣らない資正の名将ぶりが発揮された逸話といえるだろう。
だが、そんなサラブレッドの資正にとって皮肉なことは、息子の氏資が最大の敵となったことだ。氏資は親北条の立場を貫き、忠実にしゅうとの氏康に仕えたため、父親の守る岩槻城を容赦なく攻め立てたのだ。わが子に城を追われた資正は、常陸国の佐竹義重(よししげ)を頼るなどして北条氏に徹底抗戦を続けた。
やがて豊臣秀吉の小田原征伐が始まると69歳と高齢であったにも関わらず戦場に参陣。ついに悲願であった宿敵、北条氏の最期を見届けたのである。
残念ながら故郷の岩槻城に戻ることはかなわず、70歳で病没した。それでも、リストラの身で北条氏と戦い続け、その滅亡を見届けるまでしぶとく生きた資正の執念は見事というほかない。 (渡辺敏樹/原案・エクスナレッジ)
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