Thứ Ba, 7 tháng 10, 2014

文化遺産オンライン。11万作品をネット上で公開

文化遺産オンライン
文化庁運営の文化遺産ついての電子情報広場(ポータルサイト)
950館、11万作品をネット上で公開しています。

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【例】
小茂田青樹(おもだ せいじゅ)の 「虫魚画巻(ちゅうぎょ がかん)」

1.文化遺産オンライン
2.文化遺産データベース
3.フリーワード:「小茂田青樹 虫魚画巻」
4.虫魚画巻http://bunka.nii.ac.jp/db/SearchDetail.do?heritageId=93483


小茂田青樹(おもだ せいじゅ、1891年- 1933年)は、近代日本画家。
川越の呉服商の子。

山水・花鳥画を能くし、「虫魚画巻」を発表しました。
幻想的な独自の世界を築きあげました。
本作を院展に発表の2年後42歳で逝去しました。

現・武蔵野美術大学教授も務めました。

川越・幸町の実家は蔵の喫茶になっています。








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埼玉のデータ



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◆ 記数英

◆ あ

荻野吟子賞
◆ か

鎌倉街道上道

企業売上高ランキング

◆ さ

埼玉経済同友会

埼玉県

自転車安全利用五則 埼玉県

指導者情報

埼玉県のNPO法人

埼玉県の宗教法人

埼玉県の大学 人気順

埼玉県埋蔵文化財調査事業団埼玉県立さきたま史跡の博物館

埼玉県立嵐山史跡の博物館

埼玉ゆかりの偉人(50音順)

埼玉りそな産業経済振興財団

彩の国工場 ページ後半に

女性視点の商品開発支援事業 埼玉県 *男女共同参画

創業・ベンチャー支援センター埼玉
◆ た

多様な働き方実践企業

地域でがんばる元気な商店
秩父地方の言葉
統計で見る埼玉県の動き


◆ な◆ は
◆ ま
学研まんが『埼玉県のひみつ』発刊!
◆ や◆ らわ





Thứ Hai, 6 tháng 10, 2014

「三方領知替え」で川越藩は庄内、庄内藩は長岡、長岡藩は川越へ。

三方領知替え
 /http://homepage3.nifty.com/s-yoshida2/sub24.htm
川越藩主・越前松平家の松平斉典(なりつね)は、川越藩から裕福な庄内藩への移封を画策します。
越前松平家の債務を整理するためです。

越前松平家は、徳川家康の次男・秀康を家祖とします。
転封が重なり200億円もの借財を抱えていました。
大名は、土地持ちではありません。
川越藩主・松平斉典(なりつね)は11代将軍・ 徳川‎家斉(いえなり)の子を養子に迎えていました。
11代将軍・ 徳川‎家斉(いえなり)の55人の子のうち、25男目を養子にもらい受けました。
川越藩主松平斉典は、11代将軍・徳川 ‎家斉から「斉」の字を賜っています。


川越藩主・松平斉典(なりつね)は、以前に老中首座の水野忠成に播磨姫路への転封を願いました。
しかし水野忠成が急逝したため、その願いが頓挫しました。

越前松平家は姫路藩、山形藩、白河藩、川越藩、前橋藩と転封を繰り返します。


1840年、幕府より庄内藩、川越藩、長岡藩へ三方領地替えの幕命が出されます。
   ・ 庄内藩主・酒井忠器(ただかた)は、越後長岡藩へ
   ・ 越後長岡藩主・牧野忠雅(ただまさ)は、川越藩へ
   ・川越藩主・松平斉典(なりつね)は、庄内藩へ

庄内藩の農民たちは、領地替えの命令を阻止します。
江戸にのぼり、命がけの反抗で、幕府に強訴(ごうそ)します。

この訴えは、義民一揆で善政藩主を守り抜く運動として江戸の世論を沸かせます。

他の諸藩からも三方領地替えについての質問状が出され、幕閣の間でも意見が別れます。

この間、11代将軍徳川家斉が死去します。
家督を継ぐはずの徳川‎家斉からもらい受けた養子 も早世しました。


翌年1841年、領地替えの幕命は撤回されました。


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川越藩主をつとめた越前松平家藩主

川越藩主・越前松平家の廟所は、喜多院にあります。
7代が100年、川越藩主をつとめました。
5人の藩主:朝矩(とものり)、直恒(なおつね)、直温(なおのぶ)、斉典(なりつね)、直候(なおよし)

越前松平家= 松平大和守 = 前橋松平家


【文献】
藤沢周平『義民が駆ける』
中村彰彦『北風の軍師たち』 
国立歴史民俗博物館『地鳴り 山鳴り』
黒須繁」『武蔵野』351、352
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1138475751

Thứ Bảy, 4 tháng 10, 2014

大道寺政繁


大道寺重時は北条早雲の重臣
伊豆の堀越御所の急襲、岡崎城奪取、高輪合戦で華々しい活躍を。
1546年の河越夜戦でも北条綱成を助け、上杉勢を北に敗退させた。その後河越城の守将北条綱成が甘縄城に帰城することになり、大道寺重時の子・重興が河越城を治めることになったのである。
重興も活躍があり、河越居住とななる。

政繁は、t22武田氏と駿河富士川の戦い、1560岩槻城攻略でも先陣をつとめ、同年の久能山や興津の戦いでは、信玄を甲州に敗走させる大活躍をした。
これ以降1590年まで3,4,5代の40年間にわたって河越を支配する。
また、織田信長の重臣滝川一益が上州に進攻したが、本能寺の変が起こると、政繁はt10上州沼田城へ進攻しこれを攻略した。この功により松井田城を賜わり、小諸、小田井の城代も務めるのである。
さらに川中島では、上杉景勝、徳川家康とも戦火を交えている。

やがて河越城を庶子に譲り、自らは嫡子直重とともに松井田に住んだ。

1590年秀吉による北条氏攻略が行われると、政繁、直重は豊臣軍を迎え撃つが敗れ、松井田城に40日間籠城奮戦し、豊臣の軍門に下る。

大道寺政繁は、豊臣方の先鋒を命じられ、鉢形、松山、八王子の攻略に参加するが、殺害される。

大道寺政繁がいた頃は、掃除の励行、道路の整備、火の用心などを厳命している。川越はかなり賑わっていた。


(川越大事典)