仙台真田家13代・真田徹「大坂の陣の後、次男は伊達政宗の庇護下で生き延びた」
大坂の陣で徳川家康を追い詰め、“日本一の兵”と称される戦国武将・真田幸村。来年、NHK大河ドラマ「真田丸」が始まるのを前に、ゆかりの地に大勢の人が詰めかけるフィーバーぶりだ。幸村の末裔である仙台真田家13代・真田徹さん(67)が秘話を披露した。
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真田幸村は、関ケ原の戦いで東軍についた兄・信之と別れて西軍につき、敗れたのちは、父・昌幸とともに高野山の九度山に逃れました。
昌幸の死後、幸村は大坂冬の陣、夏の陣を戦いましたが、1615年、夏の陣で討ち死にしました。幸村には子供が13人(男子4人、女子9人)いましたが、長男の大助はこのときに自害。
当時、まだ4歳だった次男の大八と4人の娘が奥州に逃れました。
そこで大八が仙台真田氏を興し、私はその13代で、幸村から数えると14代にあたります。
大八や娘たちが生き残ったのは、幸村が生前、大坂の陣で敵方にあった仙台藩伊達氏の家臣、片倉重綱[(しげつな)小十郎]に、子供たちを託したからです。
講談などでは、幸村の娘の阿梅(おうめ)が白装束になぎなたを持って重綱の前にあらわれ、「自分は真田幸村の娘だ」という書状を持っていたので、重綱が「自分も男だ、わかった」と引き受けた、という涙の物語で語られていますね。
ただ本当のところは、そうではないでしょう。
重綱がそれほど重大な決断を一人でできるとは考えにくい。
事前に藩主の伊達政宗と幸村との間で、子供を頼むというやりとりがあったのではないかと思いますが、そのあたりの事情は史実としてはわかっていません。
引き取られた後、藩は大八の存在を隠していました。
家康を窮地に陥れた幸村の子が生き残っているとなれば、徳川幕府が許すはずがありませんから。
そこで伊達家は幕府を欺くため、大八は「8歳のときに京都で死んだ」という情報を九度山の蓮華定院に流したうえで、実際の大八については、家系図を操作して「真田幸村の叔父の孫だ」と幕府に報告していたようです。
大八は、伊達家に召し抱えられた際、一時真田姓を名乗りましたが、幕府から家筋調査を受け、姓名を片倉守信(もりのぶ)と変えました。
いまの宮城県蔵王町に、360石を与えられました。
その後、次の辰信(ときのぶ)の代になって、正式に真田姓に復帰しました。
大坂の陣から100年近くも経ってからのことです。
幸村は兄の信之と袂を分かちましたが、1673年、辰信の時代に、信之の子孫と再会したという記録が残っています。
信之を初代藩主とする松代藩の3代・幸道が、愛媛にあった伊達家から正室をもらうことになり、その際、伊達の本家が後見人になりました。そこで、伊達屋敷に幸道が訪れ、供応の場で二人が対面したそうです。
一方、大八の姉である阿梅は、のちに片倉重綱の後室になりました。
重綱との間に子はありませんでしたが、片倉家3代目となる景長の養母となり、領民に長く慕われたそうです。
また、阿菖蒲(おしょうぶ)は、重綱とは別の家系にあたる片倉家に嫁いでいます。
阿菖蒲は墓所に父・幸村の墓を建てて供養しました。
仙台真田家の屋敷は、明治維新のときになくなっていて、今はありません。
鎧は代々、うちに残っています。
これは真田昌幸から幸村に伝えられたもので、大坂冬の陣が終わってから大八に形見分けしたものでしょう。
仙台真田家の文書は大量に残っています。
いまは蔵王町の教育委員会に預けて、整理してもらっているところです。
とくに大八から数えて9代、江戸時代末期から明治期の当主だった真田幸歓(喜平太)のころのものがたくさんあって、いま残っている仙台真田氏の家系図も、「古い家系図をもとに幸歓のときに編纂し直した」と、記録されています。
片倉家とのつながりは代々ありますね。
いまも、片倉家のご当主とは交流があり、双方の家が途絶えぬよう、後見しあう関係です。
NHK大河ドラマの「真田丸」が来年始まるとあって、最近はイベントなどに呼ばれる機会も増えました。盛り上がりを感じています。
(本誌・鈴木 顕、森下香枝/カスタム出版・横山 健)
※週刊朝日 2015年11月6日号
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