Chủ Nhật, 10 tháng 8, 2014

9  西アジア・中東史の新展開 ~イスラーム教の成立~

9  西アジア・中東史の新展開 ~イスラーム教の成立~

現在当たり前のように行われている信用取引は、千年以上の歴史を持つイスラームの社会ですでに行われていました。

ウマルは、イスラーム教の成立と布教に、深く関わった人物です。
今回は、7世紀から13世紀までの中東地域を見ていきます。


イスラーム教は、砂漠の商人が始めた宗教でしたが、瞬く間に信者を増やし世界最大級の都市まで建設されました。
そこでは電子マネーの先祖とも言える、信用取引も行われていました。
現在、イスラーム教徒は10億人以上に上ります。

イスラーム教徒にとって、数名の大切な人物がいます。
そのうちの一人が「知識のウマル」とも呼ばれるウマルです。


ウマルはアラビア半島のメッカで生まれました。
2m近い大男に成長したウマルは喧嘩好きで、自分より強い者に挑み、必ず勝っていました。
メッカで最強となったウマルは、いつしか若者達のリーダーになっていました。


その頃、メッカ郊外のヒラー山で、ムハンマドが洞窟にこもり瞑想を始めました。
ムハンマドはメッカの商人の家に生まれ、その後、砂漠での隊商貿易に従事しました。
ある日、ムハンマドに、神の言葉が伝えられました。
預言者ムハンマドの誕生です。


神からの最初の言葉は「詠(よ)め」、すなわち、口に出して唱えよということでした。

ムハンマドは、神の言葉を人々に伝える活動を始め、大きな波紋を呼びます。
当時、メッカにあるカーバ神殿は、多神教であったため、様々な神が祀られていました。
それに対し、ムハンマドは「神は唯一絶対である」と唱えたのです。

人々は、ムハンマドを危険な思想を唱える者として迫害します。
ウマルもムハンマドの暗殺を考えたほどでした。

しかしウマルは神の言葉「コーラン」を聞き、その響きと内容に感動して、イスラーム教に入信します。


ウマルは迫害する側からされる側に回り、少数の信者とともに、メッカからメディナに移りました。
この時期、ムハンマドと苦楽を共にした者を教友(きょうゆう)と呼びます。
教友には、ウマルをはじめ、アブー・バクル、ウスマーン、アリーなどがいました。

次第に信者は増え、兵力も整えていきます。


そして630年にメッカを征服し、イスラーム教第一の聖地としました。
現在世界中に信者を持つ宗教となったイスラーム教の礎を築いたのは、ウマルなどの力によります。

えりさんはイスラーム教について、断食をするなど規律が厳しいイメージがあるそうです。
しかし、サヘルさんによれば、断食の一番の目的は、食べられない人の気持ちが分かるようになるためです。
断食(ラマダーン)は日の出から日没まで食事をしないことです。
そのことで食事代が浮き、断食を一ヶ月間行う事によってお金が貯まります。
貯まったお金は自分のために使うのでは無く、貧しい人たちのために使うといいます。
このように断食は、苦しい人たちの痛みを分かりながら、今ある生活に感謝するという気持ちで行われています。

サヘルさんによれば、断食は強制ではないため、その時期が来るのが嫌だというイスラーム教徒はいないそうです。
またサヘルさん自身も日本で生活していると、一ヶ月も断食をすることができませんが、出来る範囲で
行っているといいます。
このように断食は強制ではなく、行う方も恵んでもらう方も、みなが幸せになれるという教えなのだそうです。

日本では6世紀に、仏教が伝来しました。
近い時期に中東ではイスラーム教が成立し、離れた日本でも大きな宗教的な出来事が起きていたことになります。


632年、ムハンマドが息を引き取ると、誰がその跡を継ぐか大問題となります。
そこで選ばれたのが後継者「カリフ」でした。
アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーとカリフが四代続きました。
これは後に、正統カリフ時代と呼ばれます。

そして主にウマルがカリフだった時代に、イスラーム教徒たちが支配する領域は一気に拡大します。
イェルサレムを征服イェルサレムには3つの宗教の聖地がある


638年にはイェルサレムを手中に収めます。
イェルサレムは、3つの宗教にとっての聖地であり、
ユダヤ教…「嘆きの壁」
キリスト教…「聖墳墓教会」
イスラーム教…「岩のドーム」
といった聖地があります。


イスラーム教徒の聖地は巨大な岩で、ムハンマドがここから神の言葉を聞くために天に向かったと言われています。
岩は現在、建物で覆われています。 


ウマルは、この聖地で3つの宗教が共存する条約を結びます。
キリスト教徒、ユダヤ教徒を庇護民とし、税金をかけるかわりに権利を保障しました。

後にはいさかいも起きましたが、現在に続くイェルサレムでの宗教の共存は、この時始まったと言えます。

また、ムハンマドが神から預かった言葉を集め、まとめ始めたのもウマルでした。
ウマルが改宗するきっかけとなった、美しいコーランです。

644年、ウマルは暗殺されてこの世を去りましたが、その後もイスラーム教徒たちは繁栄した社会を築いていきます。

サヘルさんは、イスラーム教徒にとってコーランは人生の教科書だといいます。
コーランの中に綴られている、ムハンマドが神から聞いた言葉は身のためにもなり、悩んだときには
コーランに問うことが多いのだそうです。

例えば引っ越しのとき、先に家にコーランに入って貰い、その家が大丈夫かチェックするといいます。
その時もしコーランを開いて、良くない内容であれば、その家は借りないというほど大切だと話します。


ウマル亡き後、ウスマーン、アリーがカリフを継ぎます。
しかし次第に社会は乱れ、アリーも暗殺されてしまいます。

その後生まれたのがウマイヤ朝です。
選挙によって決められていたカリフは、ウマイヤ家の者が世襲制で就くようになりました。
カリフを君主とする帝国の始まりです。

シリアの首都ダマスカスにあるウマイヤ・モスクは、古代ローマの神殿がキリスト教の教会となり、
それを取り壊して作ったモスクです。



壁を飾るモザイク画はキリスト教徒の職人に作らせたものです。
そして回廊の柱はローマ風です。
良いものは、宗教・文化を越え、取り入れるのがイスラーム流です。



ウマイヤ朝は西はイベリア半島から、東は中央アジアまで、広大な勢力範囲を獲得していきます。

ウズベキスタンの古都サマルカンドは、現在では他民族の侵略などにより当時の姿は跡形もありませんが、
シルクロードの要衝の町として栄えました。
イスラーム教は現在もこの地の人々に深く浸透しています。



現在のスペインにも、イスラーム文化の名残があります。
コルドバの町に建つメスキータは、2万5千人を収容できる大モスクでした。
アーチを支える柱はおよそ850本もあります。
イスラームだけではなく、様々な美術様式が混在し、世界遺産に登録されています。

こうしてイスラームは勢力範囲を広げる一方、様々な文化を取り入れていきました。

これまで様々な土地でイスラームによる征服がありました。
しかしその文化を取り除くのではなく、取り入れて残しているのがイスラームの良いところだと、
サヘルさんは言います。

良いところは良いと認めることで、教えを受ける側も受け入れ易く、それがイスラーム教が短期間で
広まった理由の一つだと考えられます。



750年にウマイヤ朝は倒され、アッバース朝が成立します。
アッバース朝の首都はバグダードです。
当時のバグダードは、技術の粋を凝らした革新的な円形の都市でした。
周囲7km、高さ18mの城壁で囲まれていました。

その内側は官庁街で、様々な民族から登用された官僚と軍人、合わせておよそ3万がいました。



アッバース朝はアジアやアフリカに4つの幹線ルートを伸ばします。
この交易の大動脈を通り、東西の様々な産物や文化が、バグダードに集まってきました。

たくさんの市場が建てられ、数多くの店が軒を連ねていました。
そこでは商人たちの活躍で、世界各地から莫大な富が集り、貨幣経済が発達します。



バグダードでは小切手が使われており、現金不要の信用取引がすでに存在していました。
バグダードの小切手は、4千km離れたスペインでも換金出来ました。

経済だけでなく、学問も発達します。
イスラームの教えに基づく学問だけでなく、古代ギリシアの著作も研究されました。

同様に、医学の分野も発達します。
12世紀の総合病院の跡からは、外科、内科、産科、そして精神科も置かれ、入院施設もあったことが
わかっています。

アッバース朝当時のイスラーム帝国は、様々な分野で世界の最先端を誇り、後のヨーロッパにも影響を与えることになります。

サヘルさんによると、イランでは現在も日常的に小切手が使われているそうです。
普通の生活をしている人々がカバンの中にいつも小切手を入れており、少し大きな買い物をする時は、
小切手を利用するとのことです。


羽田先生によると、イスラーム帝国という呼び方は確かに一面では事実ですが、注意するべきことがいくつか
あるといいます。

一つは、その帝国の中にいた人たちが、全員イスラーム教徒だったわけではないということです。
征服当初は、8割から9割、あるいはそれ以上の人がイスラーム教徒ではなかったといいます。
そのため、イスラームということだけで歴史を見ると、現実が見えなくなってしまいます。

色々な地域に色々なイスラーム教徒がおり、様々なイスラームがあります。
イスラームは一つだと考え、皆同じ様な考え方で生活し行動していたと、ひとくくりにすることはできません。
イスラームは一つの要素ですが、それだけでは歴史を判断できない難しさがあります。

えりさんはイスラーム教について、元々持つイメージよりも、理解が深まったと言います。
国や宗教が異なっていても、他人を思いやる気持ちは、同じなのかもしれません。
歴史を勉強することで、互いの文化や習慣を理解し合い、より平和な世の中に繋げることができます。

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