Chủ Nhật, 8 tháng 11, 2015

深谷市。映画館で街に潤いを。NPO竹石研二

2015/11/8】東京新聞、引用編集
深谷シネマの年代物の映写機を操る竹石研二さん
深谷市深谷町の旧中山道沿いにある映画館「深谷シネマ」。
わずか六十席の映画館だが、年間約百本の作品を上映し、約二万五千人の来場者を集めている。
市民団体が主体となって文化、芸術性の高い作品を中心に上映する「コミュニティシネマ」の草分けとして注目され、全国から視察が相次ぐようになった。

 深谷シネマを運営するNPO法人「市民シアター・エフ」が発足して十五年。
“生みの親”の竹石研二さん(67)は「ようやく市民に親しまれる街の映画館として定着してきた。
これからも市民の暮らしと共にある映画館を目指したい」と語る。

 竹石さんが深谷シネマの構想を温めたのは十七年前。
ちょうど五十歳を迎えた時期に勤め先から転勤を言い渡され、岐路に立たされた。
テーブルにメモ用紙を広げ、自分自身に問うた。
「自分の夢は何か。本当に自分がしたいことは何なのか」

 竹石さんは勤め先を辞め、仲間と共に「市民のための映画館をつくろう」と署名活動を始めた。
市内から映画館が消えて三十数年。
「商店街の一角の小さなスペースでもいい。
映画館を核に、かつての街のにぎわいを取り戻そう」との思いからだった。

 二〇〇〇年にNPO法人の活動を開始。
この年、第一回市民映画会を開いたほか、商店街の店舗を借りた仮設のミニ劇場に一週間で千百五十人の来場者を集めた。
〇二年には銀行の空き店舗を改装して念願の常設映画館「深谷シネマ」(五十席)を開業。
一〇年に旧七ツ梅酒造跡を改装し、移転オープンした。
リーマン・ショック直後は来場者数が三割ダウンし、赤字に転落したが、その後客足は持ち直しつつあるという。

 「映画館ができると人が来て、空洞化しつつある商店街に新たな人の流れが生まれた。
映画館は街の必需品なのだとつくづく感じた」。
深谷シネマの経験を全県に広めようと、各地での上映会や小規模映画館開設の手伝いにも力を入れる。
シネマコンプレックス(シネコン、複合映画館)が主流となるなかで「県内の自治体のうち約三分の二に映画館がない」と憂いつつも「街の小さな映画館とシネコンのすみ分けは十分可能だ」と指摘する。

 また、深谷シネマに足を運べない人のために年間二十回ほど、映写機を運んで各地で出張上映会を開いたり、市の記録映画の制作も手掛けたりと、館外活動も盛んに行っている。

 「映画は自分の体験したことのないわくわくした世界に連れて行ってくれる“窓”だ。
国を超えて人間の多様な生き方も見せてくれる。
その魅力を伝えたい」 (花井勝規)


<たけいし・けんじ> 1948年、東京都墨田区向島生まれ。都立の工業高校を卒業後、工場勤務などを経て75年、横浜放送映画専門学院に入学。卒業後、日活児童映画の企画営業部門で約10年間勤務。2000年、「深谷シネマ」を運営するNPO法人「市民シアター・エフ」の理事長に就任した。NPO法人埼玉映画ネットワーク理事長も務めている。深谷シネマの所在地は深谷市深谷町9の12。火曜休館。問い合わせは同シネマ=電048(551)4592=へ。

Thứ Bảy, 7 tháng 11, 2015

本應寺


川越観光案内  第11回  本應寺


NPO武蔵観研 会長  桑  原  政  則


[リード]

蔵造りの町並みを通り、菓子屋横丁をさらに



本應寺の由来

  1547年、松山城(吉見町)は北条氏に奪われ、城主・上田一族は滅亡しました。長沢久右衛門は逃げる際、主君より大事なものを託されました。長沢一族は川越の鴨田、石田、老袋に逃れ、農民として土着しました。25年後に、この秘宝をたずさえ、本應寺を石原の地に創建しました。山号の長久山は、長沢久右衛門から取ったものです。

仁王門

金剛力士?の像を左右に安置してあります。@邪気の入るのを防ぐためです。仁王門があるのは、川越では3キロ先の常楽寺とここ本應寺だけです。

一切経蔵および輪蔵(りんぞう)
仁王門の脇には、一切経蔵(いっさいきょうぞう)があります。一切経蔵内には、

輪蔵と呼ばれる八角形の回転する経蔵に、お釈迦様が説いた経典の全てが保管されています。



かつては、河越城と松山城(比企郡吉見町)は、後北条の北関東前線基地であった。


*本堂* 本応寺第15世は本山の法主(ほっす)に
本応寺の第15世は、日蓮宗総本山・身延山久遠寺の法主(ほっす)になりました。

久遠塔(くおんとう)
永代供養塔のことです。誰もが拝めるように本堂前の目立つところに端座しています。2月15日は、お釈迦様がなくなった供養の日です。翌日の2月16日は日蓮上人がなくなった日にあたります。



高山繁文は芭蕉の門人
高山伝右衛門繁文は、川越城主・秋元喬朝(たかとも)の家臣で、殖産興業で功績を残しました。松尾芭蕉の門人でもありました。

川越城の太鼓:松井松平家


日蓮宗

15世は


”  高沢橋  4寺と組んで  城守り  ”
見立寺(けんりゅうじ)、大蓮寺、本応寺、観音寺の4寺は、
いくさに備えて、
高沢橋を守る砦(とりで)の役を果たしていました。


高沢橋から川越城までは、わずか450メートル。


菓子屋横丁からわずか80メートル。
災害時の避難には、高沢橋方面へ誘導を。【※】観光客はまず知りません。


眼を見張るようなトイレの設置を。

かつては4寺は砦でも。川越城・中の門・堀跡との関連。 川越史。
緊急避難場所  
めがね橋   すべり渕    


寺は砦(とりで)にも
本応寺、観音寺、大蓮寺、見立(けんりゅうじ)は、高沢橋を守り、500m先の川越城 敷地←を  
川越城は、北に


ささら獅子舞
小浜市と姉妹都市 交流がさかんになることを


大道寺政繁
常楽寺に墓。広済寺を建立。蓮馨寺(れんけいじ)を現在地に。見立寺(けんりゅうじ)。大蓮寺






本應寺の概要
山号   長久山(ちょうきゅうざん)。 @@「長」「久」は、長沢久右衛門より。
寺号   本應寺(ほんのうじ)
宗派   日蓮宗 【※】日蓮宗は川越市で5社。
創建   1615年(元和元年、がんながんねん)。
本尊  久遠の釈迦  二仏びょうざ
住所  川越市石原1-4-9  バス:川越駅東口  6番乗り場より石原町。
別院  広谷山・本應寺別院 〒350-0804 川越市下広谷331-13
拝観  自由。無料



【後記】
  本應寺は、励んでいます。
15世は大本山・身延山久遠寺の法主(ほっす)に栄達しました。
星 光喩(ほし こうゆう)現住職は、寺史編纂を企画しました。川越市シルバー人材センターが中心となり、檀家、郷土史家、宗門専門家などの協力で135ページの寺史を完成させました。

また、住職は、ケイタイ説法を8年間続けています。地湧(じゆう)塾を開き、「モーコリタ」(忘己利他)といった冊子を発行しています。 チベットを訪問し、講演会を開いたりしています。

 本稿作成にあたり、本應寺の星・光喩(ほし・こうゆう)住職にお世話になりました。文責は桑原政則、写真は石山貞夫にあります。


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住民と力合わせ寺史編纂
埼玉県川越市・日蓮宗本應寺 星光喩住職

2014年7月30日付 中外日報(キラリ ― 頑張る寺社・宗教者)

日蓮聖人の魂を伝えたいと話す星光喩住職


「小江戸」と呼ばれ、多くの観光客でにぎわう埼玉・川越。
蔵造りの町並みや菓子屋横丁などの観光スポットの近くに日蓮宗本應寺はある。

同寺は1615(元和元)年の開創で、来年400年を迎える。
川越藩の国家老で、松尾芭蕉の門人でもある高山繁文の墓所があり、俳句好きな人たちがよく訪れ、句会の会場にもなる。

15世住職の日奏が身延山久遠寺法主に就任するなど由緒ある寺院だが、1780(安永9)年に火災で多くの資料を焼失した。
かねて寺歴をまとめたいとの希望を持っていた星光喩住職は、立教開宗750年記念として寺史編纂を企画。

川越市シルバー人材センターに編集を依頼した。
高校などで歴史を教えていた教諭や郷土史家などが同センターに登録しており、地元を愛する人たちと一緒に歴史をたどり直そうとの思いからだった。

編集に参加した人たちは、国会図書館や立正大図書館にも通い、また宗門史の専門家に教えを請い、檀家の取材なども精力的に行った。
2003年に『長久山本應寺  今むかし』がまとまり、本應寺が創建された当時の川越の様子から、一切経などの寺宝についても分かりやすく解説されている。

編集を通じて地域の歴史があらためて見直され、この冊子の出来栄えを見て、市内の他の寺院から同センターに寺史編纂の注文が続いたという。

星住職は同寺を会場にチベットの現状を語ってもらう講演会を開いたり、また有志と「地涌塾」を立ち上げ、心も言葉も振る舞いも宗祖に学ぼうと檀信徒に呼び掛けている。

その原点は宗門が主催する布教研修所での御遺文講義だった。
講師は日蓮教学の第一人者、茂田井教亨・立正大教授で、5人の入所者と1年間寝起きを共にした。
「先生は文章に込められた聖人の魂を語られた。
御遺文とはこのように読むものかと衝撃だった」と当時を振り返る。

日蓮聖人は『立正安国論』を執筆し、この世を仏国土に、と為政者に進言した。
その門下として、地域の人たちの心に仏教を届け、より良い社会を目指そうとする試みを続けている。

(有吉英治)


Thứ Sáu, 6 tháng 11, 2015

10月26日、1643年。春日局、没。3代秀光の乳母で大奥を整える


【※】仙波東照宮  特別公開中

仙波東照宮の石鳥居は、
1638年(寛永15年)年のもので、国の重要文化財となっています。
堀田正盛が奉納したものです。
堀田正盛の義理の母は春日局です。

堀田正盛は、3代家光が逝去した時、殉死(じゅんし)しました。
これ以降徳川幕府は、主君のあとを追っての自殺、殉死を禁止しました。





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大坂の陣の後、真田幸村の次男は伊達政宗の庇護下で生き延びた。

仙台真田家13代・真田徹「大坂の陣の後、次男は伊達政宗の庇護下で生き延びた」
   
 大坂の陣で徳川家康を追い詰め、“日本一の兵”と称される戦国武将・真田幸村。来年、NHK大河ドラマ「真田丸」が始まるのを前に、ゆかりの地に大勢の人が詰めかけるフィーバーぶりだ。幸村の末裔である仙台真田家13代・真田徹さん(67)が秘話を披露した。

*  *  *
 真田幸村は、関ケ原の戦いで東軍についた兄・信之と別れて西軍につき、敗れたのちは、父・昌幸とともに高野山の九度山に逃れました。

 昌幸の死後、幸村は大坂冬の陣、夏の陣を戦いましたが、1615年、夏の陣で討ち死にしました。幸村には子供が13人(男子4人、女子9人)いましたが、長男の大助はこのときに自害。
当時、まだ4歳だった次男の大八と4人の娘が奥州に逃れました。
そこで大八が仙台真田氏を興し、私はその13代で、幸村から数えると14代にあたります。

 大八や娘たちが生き残ったのは、幸村が生前、大坂の陣で敵方にあった仙台藩伊達氏の家臣、片倉重綱[(しげつな)小十郎]に、子供たちを託したからです。
講談などでは、幸村の娘の阿梅(おうめ)が白装束になぎなたを持って重綱の前にあらわれ、「自分は真田幸村の娘だ」という書状を持っていたので、重綱が「自分も男だ、わかった」と引き受けた、という涙の物語で語られていますね。
ただ本当のところは、そうではないでしょう。
重綱がそれほど重大な決断を一人でできるとは考えにくい。
事前に藩主の伊達政宗と幸村との間で、子供を頼むというやりとりがあったのではないかと思いますが、そのあたりの事情は史実としてはわかっていません。

 引き取られた後、藩は大八の存在を隠していました。
家康を窮地に陥れた幸村の子が生き残っているとなれば、徳川幕府が許すはずがありませんから。
そこで伊達家は幕府を欺くため、大八は「8歳のときに京都で死んだ」という情報を九度山の蓮華定院に流したうえで、実際の大八については、家系図を操作して「真田幸村の叔父の孫だ」と幕府に報告していたようです。

 大八は、伊達家に召し抱えられた際、一時真田姓を名乗りましたが、幕府から家筋調査を受け、姓名を片倉守信(もりのぶ)と変えました。
いまの宮城県蔵王町に、360石を与えられました。

 その後、次の辰信(ときのぶ)の代になって、正式に真田姓に復帰しました。
大坂の陣から100年近くも経ってからのことです。


幸村は兄の信之と袂を分かちましたが、1673年、辰信の時代に、信之の子孫と再会したという記録が残っています。
信之を初代藩主とする松代藩の3代・幸道が、愛媛にあった伊達家から正室をもらうことになり、その際、伊達の本家が後見人になりました。そこで、伊達屋敷に幸道が訪れ、供応の場で二人が対面したそうです。

 一方、大八の姉である阿梅は、のちに片倉重綱の後室になりました。
重綱との間に子はありませんでしたが、片倉家3代目となる景長の養母となり、領民に長く慕われたそうです。
また、阿菖蒲(おしょうぶ)は、重綱とは別の家系にあたる片倉家に嫁いでいます。
阿菖蒲は墓所に父・幸村の墓を建てて供養しました。

 仙台真田家の屋敷は、明治維新のときになくなっていて、今はありません。
鎧は代々、うちに残っています。
これは真田昌幸から幸村に伝えられたもので、大坂冬の陣が終わってから大八に形見分けしたものでしょう。

 仙台真田家の文書は大量に残っています。
いまは蔵王町の教育委員会に預けて、整理してもらっているところです。
とくに大八から数えて9代、江戸時代末期から明治期の当主だった真田幸歓(喜平太)のころのものがたくさんあって、いま残っている仙台真田氏の家系図も、「古い家系図をもとに幸歓のときに編纂し直した」と、記録されています。

 片倉家とのつながりは代々ありますね。
いまも、片倉家のご当主とは交流があり、双方の家が途絶えぬよう、後見しあう関係です。

 NHK大河ドラマの「真田丸」が来年始まるとあって、最近はイベントなどに呼ばれる機会も増えました。盛り上がりを感じています。

(本誌・鈴木 顕、森下香枝/カスタム出版・横山 健)

※週刊朝日  2015年11月6日号

町の顔は「マリコ人形」 長野県・富士見町

15-2】(信濃毎日新聞社・菅原絵里菜)引用編集
さまざまな「マリコ」を前に作業する大御堂恵子さん
長いまつげの大きな瞳に、笑みを浮かべた真っ赤な唇。
〓(順の川が峡の旧字体のツクリ)の染まった丸い顔。
独特の風貌の人形に「それでいいのよん」「うまくいくわよん」といった前向きなメッセージが添えられている。
「マリコ」と名付けられた女の子の人形が、長野県富士見町の新たな名物になりつつある。

  町内で買えるのは商店街や道の駅など9カ所。
酒店では酒瓶を抱えた「よっぱらいマリコ」、豆腐店は四角い顔の「とうふマリコ」―とそれぞれ違う人形(1体980円前後)が売られている。

 作っているのは、町内の人形作家、大御堂恵子(おおみどう・けいこ)さん(40)。
知人の高校生の娘に「マリコという名前がぴったり」と言われ、そのまま名付けた。
2010年夏のことだ。

 最初は、女の子の形をした人形をレストランに置いただけだったが、文房具店にペンをかたどった「ペンマリコ」を納めたところ評判に。
「うちにもオリジナルのマリコを作ってほしい」との声が相次ぎ、さまざまな変わり種を作ることになった。
その店でしか買えないマリコ人形を集めよう―と町内を巡るファンも現れた。
大御堂さんによると、これまでに千体以上が売れたという。

 町発行の観光情報誌には、昨年秋から「マリコが行く」と題するコーナーもでき、町の見どころを案内する役として登場。
町産業課主任の清水美紀(しみず・みき)さん(31)は「富士見町のPRに一役買ってくれている」と話す。

 町内の商店で生まれ育った大御堂さん。
周りには閉店した店も多く、現在の商店街の姿に寂しさも感じるという。
「マリコをきっかけに町に興味を持ち、訪れる人が増えてほしい」。
そんな願いを込め、365日、休まずに針を動かしている。


*
 マリコ人形は、富士見町の友好都市、東京都多摩市にある共同のアンテナショップでも販売されている。
「キモかわいい」と評判。ルバーブジャムやそばといった町特産品とともに、多くの人に愛されることを願う。

『探訪 比企一族』。 東松山のグループが出版

2015年11月5日】東京新聞、引用編集
本を執筆した比企一族歴史研究会の
西村裕さん(中)、木村誠さん(右)と企画担当の佐浦希望さん
平安末期から鎌倉時代にかけての比企地方(現在の東松山市など)の豪族・比企一族について研究する東松山市の市民グループ「比企一族歴史研究会」が、成果をまとめた単行本「探訪 比企一族」(A5判二百八十三ページ、千七百二十八円)を出版した。
比企一族は流刑中の源頼朝を物心両面で支え、鎌倉幕府誕生に大きな役割を果たしたが、頼朝の没後、北条氏に滅ぼされた。
このため史料は少なく、全国的な知名度も低い。
研究会は「県民に比企一族を知ってもらい、町おこしにもつなげたい」と話している。 (中里宏)

 研究会は東松山市が運営する「きらめき市民大学」の郷土学部で二年間学んだ市民を中心に二〇一二年四月、発足した。
現在の会員は二十九人。
会長の西村裕さん(68)は「比企一族のことを授業で学んだのがきっかけ。歴史に埋もれ、地元でもあまり知られていない一族をもっと勉強し、市民に語り継いでいこうと有志が集まった」という。

 研究会は鎌倉幕府による歴史書「吾妻鏡」などの文献研究のほか、平治の乱(一一五九年)の後、頼朝が幽閉されていた静岡県・伊豆地方に出かけて伝承・伝説を調査した。
原稿は西村さんと副会長の木村誠さん(75)が執筆した。
西村さんは「歴史は勝者の記録と言われるように、北条氏側から書かれた吾妻鏡には、比企一族のことがわずかしか書かれていない。
しかし、各地に伝承・伝説は残っている。
これらの伝承こそが敗者の歴史ではないかと思う」と話す。
木村さんは「伝承・伝説にくわしい人の高齢化が進み、時間との闘いだった」という。

 頼朝の乳母だった比企尼(ひきのあま)は、伊豆に流されて孤立無援だった頼朝を二十年にわたり物心両面で支援したとされる。
研究会は「比企尼の支援がなければ、鎌倉幕府の成立はなかったといっても過言でない」とみる。比企尼の次女、三女は頼朝の嫡男の二代将軍頼家の乳母に任ぜられたほか、家督を継いだ養子の比企能員(よしかず)の娘・若狭局(わかさのつぼね)は頼家の妻となるなど、一族は初期の鎌倉幕府で有力御家人となった。

 このほか、比企尼の長女の丹後内侍(たんごのないし)は、江戸時代まで薩摩藩主を務めた島津氏の祖・島津忠久の母親で、次女は現在の川越市を拠点にした河越重頼(しげより)に嫁ぎ、その娘は源義経と最期をともにした正室の郷(さと)御前とされる。

 東松山市周辺には、頼家が北条氏に殺された後、比企地方に戻った若狭局が、迷いを断ち切るため頼家の形見のくしを投げ入れたとの伝説が残る串引沼など、比企一族にまつわる伝承や鎌倉と共通する地名が多い。

 西村さんは「今後は義経と郷姫の話や島津氏に関する鹿児島の伝承などを足を運んで調べたい」と話している。
 問い合わせは「まつやま書房」=電0493(22)4162=へ。

Chủ Nhật, 1 tháng 11, 2015

酒蔵で映画 地域の拠点へ改装 深谷市(ふかやし)

15-1】(埼玉新聞社、文と写真・江利川義雄)引用編集
深谷シネマ」の周辺では、イベントも開かれている。2013

 旧中山道の宿場町・深谷市(ふかやし)で、廃業した造り酒屋の建物群を地域の拠点に再生しようと、まちおこしが進められている。
中心は酒蔵を改装したミニシアター「深谷シネマ」。
敷地内には古本屋や交流拠点、軽食堂もあり、幅広い世代が集う場になりつつある。

 切り妻屋根の蔵の中にはスクリーンがかかり、段差のあるフロアにゆったりとした座席が並ぶ。
お盆明けに上映されたのは、有川浩さん原作の「県庁おもてなし課」。
まちおこしにかける地方の人たちの物語だ。

 深谷シネマは、つくられていた清酒の銘柄にちなんで「七ツ梅酒造」と呼ばれた酒蔵の面影を残す。
創業約300年の歴史を誇った老舗の敷地にはれんが煙突がそびえ、重厚な倉庫が今も残る。

 造り酒屋は2004年に廃業、建物群はロケ地に使われる程度だった。
10年に一般社団法人「まち遺(のこ)し深谷」が維持管理を担い、NPO法人「市民シアター・エフ」運営の深谷シネマが移転したことで生まれ変わった。

 二つの団体は、ともに市民が主体。
困難はあったが、深谷シネマ館長の竹石研二(たけいし・けんじ)さん(65)は「映画館とまちづくりはセット。
移転先を、ここにしたのは正解だった」と話す。
まち遺し深谷の専務理事大塚博(おおつか・ひろし)さん(64)も「深谷シネマが移転してくれて、地域おこしの歯車が大きく動いた」と、手応えを感じている。

 3千平方メートルを超える敷地に残る建物には豆腐店や講座を催す寺子屋、鬼瓦づくりの工房など約10店舗が入った。
しかし、大塚さんは「まだ使われていない魅力的な建物も多い。
ライブハウスや寄席もつくりたい」と、夢を広げている。



 【埼玉新聞社】
参加新聞社
もうひとおし
歴史ある建物に存在感
 JR深谷駅から北に歩いてすぐの市街地に旧七ツ梅酒造はある。約300年の歴史を刻んだ建造物は存在感がすごい。レトロな異空間は若者にも好評で歩くだけでも楽しい。映画を見て散策してほしい。魅力的な場所だ。(埼玉新聞社・江利川義雄)